日本小児科学会埼玉地方会は、平成12 (2000)年7月には第100回学術集会を開催するに至リました。これを記念して、これまでを振り返リ、埼玉地方会学術集会100回の特別講演の記録を整理すると同時に、埼玉地方会の学会活動及び会員の学会関係活動の年譜を纏めてみました。会の今日までの大凡の経過は、読み取れるものと思います。

 第1回の学術集会は、昭和38 (1963)年11月16日、本会設立総会当日の学術講演会(東大・高津教授)となっており、それ以来今日まで中断することなく毎年2回の集会が連綿として継続され、昭和60 (1985)年9月からは年間4回の学術集会が催され、埼玉県の小児科医一同の研鑽の場として発展を続けていることは会員一同にとってこの上ない喜びであリます。

 全国各都道府県にはそれぞれ学会地方会が結成されており、お国振りと申しましょうかそれぞれに風格を持っているように思います 埼玉地方会にも特色があるに違いありません。創設当時からわが学会は、和やかな中にも熱心な学術探求の雰囲気があり、活発な討論と共に相互の連携協力の姿勢には常に暖かな心情が伺われ、ほかでは見られない優れた特性を保ち続けているようです。

 埼玉地方会発足当時、埼玉県には医科大学が皆無でした。第2次大戦中多数の医師義成が必要とされ、養成機関が各県に設置されるなかで、埼玉はこのことについては無縁でした。今から思えば東京には余りにも多くの大学を集中させすぎており、埼玉はその東京に余りにも近いと言うことでしょう。当時埼玉の医師の研究発表の場は専ら東京でした。

 昭和35年頃までは、埼玉県は赤痢県とまで言われたものでした。伝染病棟には子どもの患者さんも多く、重症の疫痢の子が一晩に2人も3人も運ばれて、当直以外の小児科医も呼び出されることしばしばであり、小児結核病棟は年齢様々な乳幼児から思春期までの子どもたちで溢れていたものです。それが昭和35年を境に疾病様相は変化して、腎疾患、リュウマチ熱などが子どもの疾患として目立ち始めてきます。昭和38年、埼玉地方会の設立された頃の時代背景はこの様な状況で、ここに纏めました学術集会特別講演の演題からも時代の流れを推察することができます。

 医科大学の無かった埼玉にも、ここ三十数年の間に大学、小児医療センター、周産期母子総合医療センターなど、研究医育機関、大病院、諸施設が設置されて小児保健医療体制の整備は急速に充実して参りました。21世紀を目前に、時代は少産少子・高齢社会の時代へと移り、心身共に健康な子どもの育成は今や最も重要な国家的課題でもあります。子どもたちの生命を護り、小児医学の進展に寄与すると共に、小児保健医療の実践者としての私たちに課せられた責務は重く、かつ大きいと言えます。日本小児科学会埼玉地方会第100回学術集会に当たり、発展の歴史を顧みてこれを記録し、進展に貢献された幾多の先輩に感謝をこめてこの小冊子を捧げます。

中村泰三
2000.7.2.